旅行の最近のブログ記事
無事敢行 のりきりました。
素敵な人々とたくさんの出会いがありました
ニシニカリシテからのはじまり
さすが亀さんの手作りフェス
俊足のアキレスも追いつけません
子供たちはクチビルをぷるぷるさせ
俺は興部と西興部のソフトクリームを食べ比べ
北海盆唄に自前のオノマトペでのど自慢
ふいに劇団天井桟敷の俳優福士恵二からメールで
彼が興部出身と初めて知る
会場のゲストハウス「GA.KOPPER」は
小学校を生まれ変わらせた
食を知り尽くした浅野さん夫婦による宿
のびやかな魅力に満ちている
熊、鹿の肉、ほたて、ウニ、に舌鼓
杜氏でもあった浅野さんの日本酒も
呑めば星空と共鳴できるだろう
浅野さんがレニングラードカウボーイよろしく
颯爽とバイクで現れたのには驚いた
教育委員会の計らいで旭川まで大きなバンで向かう
もち米の里☆なよろでトウキビを食べ大福を買い
名寄のホテル山一のエピソードを知る
旭川のラーメン村では梅光軒を推薦され
西興部の行者の滝で刺されたのか
指に痒みを覚えたのは
ライブハウスモスキートのリハだった
終演後にアナログでLARS HOLLMER
Areaのデメトリオの声にTHIS HEATとは
店主の大西さんの趣味はヒカシューと近い
岩見沢とぼくの縁はMNF in JOIN ALIVE(2019)出演で
EYEや飴屋法水と濃厚なソロを奏でた
ばかりか
ヒカシュー結成の立役者のひとりロンドンで俳優を貫いた
故・楠原映二が岩見沢の出身でもある
そして企画をしてくれた吉田野乃子に感謝
お宅にヒカシュー全員でお邪魔して
ごちそうをもてなしていただいた
同世代のお父様の大きなフォローがうれしい
また名物の天狗まんじゅうの美味たるや
当日のはじまりはあいにくの雨だったが
雨上がり
会場のMPホールに着くと大きな半径で虹がかかった
高島ファミリーのあたたかい受け入れ
札幌には沼山さんとののこさんとお父さんのクルマで
途中雨が心配だったがイサム・ノグチ庭園美術館を訪問
ランチはいつもの五○堂でTODAY'S SPECIALのブリのスープカレー
BGMはゾーンかマイルスか
なぜか三田、坂出チームは白樺山荘で味噌ラーメン
カレー三昧がラーメン三昧とは
琴似駅に直結した会場パトス。
移転前には、こまっちゃクレズマやモリイクエDJオリーブと来た
札幌はNOW MUSIC ARTSの沼山良明さんが長年築いてきた
音楽シーンがある
聴衆も演奏家もそこで感性を養われてきた
OAは、吉田野乃子率いるCubic Zeroその転換のスピードは
John Zornのところで学んできた吉田の真骨頂である
久しぶりの北海道は歓迎され祝福され
ヒカシューに大きな力を授けてくれた
日本トゥバホーメイ協会企画、ロシア、アルタイ、キルギス共和国公演
新型コロナウイルス(コビット19)による世界感染拡大によるキャンセルの経緯報告。
2020年4月1日
巻上公一
「平家物語」とキルギスの「マナス」、アルタイの「カイ」を一堂に会してみたい。
現代を生きる語り部たちの頂上会議(サミット)ができないものか。
もちろん物語と英雄叙事詩の違いもあり、もともと性格が違うのだが、
ぼくはこの耳で音として芸能としての発声に注目しながら、
出会いによる気づきを求めたいと思ったのだ。
2020年1月18日
渋谷の公園通りクラシックスで「いにしえと未来が夕闇に溶ける瞬間(とき)」と題して、試演会を催した。久保田 晶子さんの「平家物語」の琵琶語りに、パーカッションやテルミンの音を加えてのコラボレーションだ。出演は、アルジャンスー (巻上公一 声、尺八、テルミン 佐藤正治 ドラムス、パーカッション) 久保田 晶子 語り、琵琶、ウメトバエワ・カリマン コムズ、口琴である。
その響きは、とても魅力的で、3月の交流に向けて手応えを感じていた。
さて、今回の交流の大きな目的は、こうだ。
アジア北方の遊牧民が信じているとされている創造神「テングリ」の思想を軸として、伝統と再生、音楽と口承文学、そして日本と北方アジアとの文化的な交流を図り、広くユーラシアの音楽を見直し、新たな発見と発展につなげたい。現在アセアン諸国との交流が深まる反面、ロシア連邦からCIS諸国の交流に弱まりを感じる。文化圏として非常に重要であるので、より強固な関係が必要である。数年にわたるプロジェクトを意識し、北方アジアと日本の大きな交流の輪を築きたい。
ところがである。2月に入って、武漢からはじまった新型コロナウイルス感染症 (COVID-19 2月11日WHOが新型コロナウイルスの正式名称を「COVID-19」と命名)が、次第にアジア全体に広がりつつあり、
後半に入っても収束するどころか、次々に世界に広がっていった。
3月1日時点
* 国内感染者254名(患者232名、無症状病原体保有者22名)
* 世界の感染者数87,137人
そして、キルギス共和国は、中国に国土が隣接していることもあるのだろう。
3月4日付のキルギス共和国の公式サイトにおいて
「特定の国(中国,イラン, 日本,韓国,イタリア)の国民に対するキルギスへの一時的な入国制限」を発表した。
それによって、われわれのチームは、まずキルギスで既に決まっていた
キルギス中央テレビとの共同制作コンサートを諦めねばならなかった。
Bakyt Chytyrbaev(伝統楽器kyl-kyjak演奏家) とNamazbek Uraliev(Lute Komuz演奏家)との共演。
マナスチ(語り部)のSamat Kochorbaevは、
以前カルムキアの語り部フェスティバル以来の邂逅に期待をしていた。
そして、ヨーロッパにCOVID-19が広がりつつ中、ロシアは意外にも冷静な対応で、
中国人は早々に入国制限していたが、日本人にはまったく制限が加わる様子がなかった。
アルジャンスーのふたり、巻上公一と佐藤正治は、共通で参加しているヒカシューのエストニア公演のために、早めに出発することになった。
3月11日(水)
成田空港からアエロフロート SU261便 13:20発でモスクワへ。
モスクワシェレメチボ空港に17:35着。トランジットでSU2262便でエストニアタリンへ 20:30 に到着。
3月17日から国際交流基金の助成を受けて
モスクワ、アルタイ、キルギスで英雄叙事詩をテーマに交流プログラムをはじめる予定でのモスクワ経由である。
ヒカシューの申請したエストニアのアジアにフォーカスしたフェスティバル「1000 Cranes festival 」(千羽鶴祭)は、国際交流基金から助成を受けられなかったが、アジアにフォーカスしたエストニア初の魅力的なものだったので、参加を決めた。すでにエストニア入りしていた他のメンバーと夕刻過ぎに合流した。
3月12日(木) 朝、世界遺産の旧市街を散策した。グレートギルド(エストニア歴史博物館)の向かい側のエストニアで一番古いカフェ(1806年創業の)マイアスモック(Maiasmokk)で朝食。新型コロナウイルス騒ぎが次第にヨーロッパに舞台をうつしてきていたが、この時点では、ロシアもエストニアも日本人をおおらかに受け入れていた。
3月13日 国際交流基金モスクワ日本文化センターの高口さんからメールをいただく、この時点では、モスクワからシベリアへの日本人の入国規制は行われていなかった。
タリンのバルト駅で、隣接する中央市場(Balti Jaama Turg)のMuhu Pagarid(黒パン屋)で黒パンを買い、Elron(エストニア鉄道)に乗り込んだ。約2時間でタルトゥ駅に到着。タクシーで会場近くのホテルにチェックインする。ホテルから徒歩1分ほどのところにギャラリーやレストランの集まったカルチャーセンターAparaaditehas がある。その一角にある会場のArmastuse saal(訳すと「愛のホール」か)に到着して、機材を広げ、サウンドチェックをしようとしたところスタッフのTiuuさんから待ったがかかる。そこにこの日共演予定のギタリストJaanus Nõgisto(ヤヌス・ヌギスト)がタリンから車に乗って3時間かけて到着した。
スタッフのTiuuさんは、電話でいろいろ確認をしている。「なんだかパニックなのよ」政府から緊急事態宣言が出て全ての公演が禁止になるようだという。しかしそれは3月13日からということだったので、お客さんもまばらにやってきて、ギリギリ間に合ってライブを行うことになった。ヤヌス氏は、伝説のギタリストでもあるが、テレビのプロデューサーとして有名人で、エストニア人なら誰でも知っているとのこと。
3月13日(金) Elron(エストニア鉄道)でタリンに戻る。AIrbnbを主催者が用意してくれたが、3部屋に7人ということなので、ぼくは三田さんと隣のパークインラジソンホテルを自分で予約して移る。
そうこうしているうちにエストニア緊急事態宣言が発出。大学まで全ての学校が休校、5月1日までのコンサートも禁止に。このフェスティバルのために来ていたダンスのデュオ86B210や山田うんもまったく公演ができないことになった。発案者で振付師のTeet Kask氏は、ダンス作品「金閣寺」を用意していたが、その上演は叶わなかった。
3月14日 (土) ヒカシュー タリン公演(KinoMaja)は、当然中止になる。午前中から旧市街で撮影をすることにした。とても美しい中世の雰囲気を残す町並みで、トームペア城に向かう坂道や広場はどこをとっても絵になる。
この非常事態もあってなのか、バルト海を臨む倉庫街で営業するモダンな日本食レストランKAMPAIのオーナーが、ランチに招いてくれた。ダンスのデュオ86B210やTeetとヒカシューのメンバーで、コロナウイルスを吹き飛ばす元気なフォトセッションをInstagramにあげた。
3月15 日 (日) ポーランド航空で3人のヒカシューメンバーが来ていたが、この日ポーランドが全ての国際線のフライトを禁止した。空港に対応を求めに行くも、航空会社スタッフはすでに本国に帰ってしまっていたため、日本まで飛べる便を探し、急遽トルコ航空の便を予約。
午前10時からMuusa helistuudioという小さなスタジオをレンタルとて録音することにした。人気作曲家DJのSander Mölderの紹介でChris Männik さんの経営。エンジニアはMikkを紹介してくれた。残念ながらスタジオのレベルは高くなく、Mikkさんの腕には不満があったが、それなりに演奏はできた。(ピアノがないのは致命的だった。ピアニストのいるグループにピアノなしは困る。)
3月16日(月) この日は雨だった。アルタイ共和国の共演者語り部のBolot Bairyshevから連絡があり、すべての文化行事が17日から中止になったとのことだ。
Коичи Сан.!! Алтай с 17 марта по всей республике преостановленл культурные программы. Один час назад правительство большое совещания было , университеты, школы все закрыли !! Мне очень жаль..
ということは、ゴルノアルタイスク行きの飛行機をキャンセル必要がある。もちろん予定していたノボシビルスクのコンサートや文化行事すべてに参加することが不可能になった。
午後になってトルコ航空組が出国した。タリンからのトルコ航空便はこの便が最後になった。
モスクワ組が残ったが、この日の夜に、
ロシア連邦共和国が18日から外国人が入れなくなることを知る。(スプートニクのニュースで)
3月17日のモスクワのライブはアルタイ共和国、キルギス共和国における演奏の試演の意味を含み、作曲家、バイオリニストのアレクセイ・アイギ、実験音楽家、サックスのセルゲイ・レートフ氏とのコラボレーションも計画していた。
大規模コンサートではないので、人数をコントロールしての開催のはずだったが、あまりにも急に変化しそうだったので、主催者とキャンセルの方向で相談をした。旅行社に事情をメールし、便のキャンセルと新しいチケットの予約を依頼する。
3月17日 (火) 朝8:20にホテルのロビーに集合。朝にはDOMでライブはせず、トランジットして帰ることに決めていた。怒濤のような一日だった。多少の心残りはある。この日はまだ日本人はロシアに入れたからだ。でも何かあまりよくない胸騒ぎがあり、まずは危険を回避しようという心が働いたのだと思う。
そして、タリンからモスクワ行きに乗る。SU2107便10:50発。タリンの飛行場は閑散としていた。免税店やエストニアのおみやげ屋さんも軒並み閉まっていて、エストニアのチャガ粉やハーブを買うことができなかった。
3月18日(水) モスクワから帰国。成田空港に到着。SU 260 19:45 SVO 11:20成田着
参考
3/13~緊急事態宣言
https://www.ee.emb-japan.go.jp/files/100018893.pdf
3/17~入国制限
https://www.ee.emb-japan.go.jp/files/100021436.pdf
クラスノヤルスクからDEXTER社の空のタクシーという飛行機に乗った。
8人乗りで小さいから、
チェックインで荷物は手荷物合わせて15キロまで
と言われてかなり焦った。
今回、東関東大地震の翌日、午後やっと動きだした電車に乗って、
しかも千葉から成田までは、一度満員で乗れず、
30分後の電車もぎゅーぎゅーで、
成田からは機転利かせて、京成に乗り換えてと、
相当な困難で来たのに、
ここで乗れなきゃ、ほんとがっかりだった。
暫し待つこと1時間。結局乗客4人なのでOKということになって、
なかなか乗り心地のいいけっこう新しめの飛行機に乗った。
空からの眺めは最高。
凍結したエニセイ川やサヤンの峰の白さが眩しかった。
クズルの町が見えてきた時は、とても感動した。
アルタイ共和国の首都ゴルノアルタイスクまで車で9時間。
ノボシビルスクの通関が厳しくて長蛇だったため
着いたのはもう夜。
一夜明けて、新しくできあがったドラマシアターに行くと
われわれのトリオАЯ(アヤ)のポスター、しかもかなり大きい。
UN(国連)の事務所に行き、友人に会いハワイコナの珈琲をご馳走になる。
バニラの香りのするフレーバー珈琲は、いまひとつアルタイ気分に似合わない。
お昼からドラマシアターで記者会見が行われた。
アルタイテレビの取材も受け、
アルタイ日本文化センター<キン>を立ち上げたエドワードさんにも対面。
<キン>は、金のことかと思ったが、どうやらアルタイ語で「へそ」という意味とのこと。
キリル文字で書くとКИНだ。
夕方、グレゴリーという人を乗せて少し郊外へ。
アルジャンスーという湧水で有名な土産物屋が軒を連ねるところを見学。
口琴の看板が目に入った。
そこからもうしばらく東へ行くとチェマルという村がある。
ここにグレゴリーの友だちでユダヤ人のカオリというアーティストが住んでいて、
ユニークな形のオカリナを作っている。
ボロットは彼女の作品をステージで使っていて、そのフォルムには見覚えがあった。
シャーマン風の太鼓もあり、
マサが叩いて「いいなぁ、でも重い」
「いくらなんだろうね」
マサの妻である香ちゃんがカオリの写真を撮る。
「イスラエルの歌謡曲に昔ナオミの夢ってのがあったよねー」
「あっちの名前かな、ユダヤの」
オカリナも含めけっこういい値段がしたので、ひとつも買わずに
グレゴリーさんの家に。
部屋にあった普通のコンガを指して、
「これ使ってもいいよ」
マサは困惑。「シャーマンの太鼓はほしいけど、コンガはいらないな」
はじめてのАЯアルタイツアーにわくわくしていた。
今年の春、アルタイ共和国を代表する歌手ボロット・バイルシェフを日本に呼んだ際、
アルタイに日本文化センターを作る話があり、そのオープニングに合わせて、
АЯの公演をしようとという話があった。
だいたいの日程を決め、飛行機の予約に入り、
8月の上旬に北京経由のシベリア航空のチケットを購入した。
ところが、
8月の下旬になって、ボロットの代理チャガットから今度のツアーをキャンセルしたいとメールがあった。
ボロットは病院にいる。文化大臣との交渉にも失敗したとあった。
出発1ヶ月を切っていた。
ぼくが購入した航空券は、払い戻し不可のもの。
このまま無駄にするのもったいない。
コンサートはなくてもいいから、とにかくアルタイに行くので招待状を出して欲しいと返信した。
そして、なんとかビザを取得し、北京経由で無事ノボシビルスクに到着したのである。
トゥバの南シジムの方に行って知ったお茶。
イワンチャイ Иван Чай。
ロシア語の辞書で引くとヤナギランと出てくるのだけど
ぼくが飲んだのは、明らかに白い花で、ヤナギランのような赤味がないものだった。
Googleで検索すると「ロシアの飲み物」というページがあった。
このページの作者もヤナギランではないと思っているらしく、
ノコギリ草に似ていると書いている。
またこの引用も興味深い。
「イワンチャイにロシア産白色粘土とかを混ぜた飲み物で、テイン(カフェイン)を含まず身体にも歯にも良いとされた薬用ハーブティーがロシアの重要輸出品目のひとつだった時代があったが、17世紀以降、イギリスが紅茶市場を独占する過程でこの対抗商品であるイワンチャイをめぐって生臭い商戦があり、イワンチャイは最終的に市場から駆逐された。」
17世紀にシベリアに逃げてきたロシア正教古儀式派の村で飲んでいるわけだから、
飲むだけで歴史の住人になれる。
ノコギリ草は、Achillea sibirica (Sibirian yarrow)なので、まさにシベリアの花。
ロシア語だとトィシャチェリストゥニク アピクノベニー(тысячелистник обыкновенный)となる。
通称は凄いよ。アキレス、ガチョウの葦、草コオロギ、ユダヤ人の草、タイル草、羊の舌。
2年前に同行したイワンくんが、トラヴァ茶(трава Чай)と呼んでいた。
訳すと「草のお茶」だけど、ノコギリ草という時、この名前は妥当かもしれない。
このお茶とてもおいしい。
野の滋味がする。
ただし
日本に持ってくると、どこがおいしいのかわからないと不評である。
ま
もう少し調べてみよう。
アバカンホテルロビーに午前3時半集合。朝6時の飛行機に乗る予定だった。
空港に行くと朝早くから売店もやっていてアルタイのホムスも売っている。
飛行機はモスクワの山火事の影響なのか1時間の遅れ。
やっと飛行機に乗れたのはいいが、席が決まっているはずなのに相変わらずの自由席状態。
これはいいかげんに直してもらいたい。
5時間のフライトでウラジオストクに到着。
その日はヒュンダイホテルでプルコギを食べ、
次の日は潜水艦博物館や展望台に行った。
夜バーに行くと、冴えない男がロシア人女性連れてダンスしていた。
後日、その人物がNHKの家族に乾杯のウラジオストク編に登場していたことが判明。
名前まで知ることになった。
日本に帰国の日、途中昼にに寄ったアルメニア料理店アララトのシャシリックはうまかった。
クズルの小高い山にチベット仏教のマントラが書かれている。
オム・マニ・ペメ・フム
今日これからトゥバを離れようとする日、オトクンがクルマで頂まで行くという。
すでにお坊さんまで同行している。
頂上からの眺めは360度のパノラマ。
ここに仏舎利なのか仏像なのか
オベリスクを建てる計画のようだ。
ホテル前に戻ると、
シュールー・オパールさんとナージャさん。
さらに
ホーメイセンターのゾーヤさん、キーラ、バーニャ。
アンドレイ・モングーシュなど
みんなが会いに来てくれた。
朝、外でブリヌイ(ロシアのクレープ)を焼いているの見ていたら
熱々のできたてを畳んで手渡してくれた。
「熱々は格別でしょ」
朝食のカーシャ(粥)も自然の甘味のみ。
天恵に舌鼓なり感謝なり。
そして、
ミハエルさんが馬を連れてきて、乗せてくれた。
ちょっと散歩程度の騎乗だが、
ミハエルさんがキースリッツァ(酸っぱい子ちゃん)と呼ぶベリー、
たぶんキシクラワー(アカスグリなのかな)を野で摘み、
ほんとに酸っぱい実を食べた。
実は昨晩遅く、日本語堪能なアイドゥンくんが、彼女と一緒に羊一頭を持ってきていて、
朝からバラン(羊の解体)を始めていた。
こういう時のトゥバ人の生き生きとした様子は、筆舌に尽くしがたい。
昼には完成。
最上の客人振る舞うドーシャとスープにハン(血のソーセージ)を入れて、
持参の柚子コショウもかなり合う。
ワークショップはクライマックス。
オッペイさんの言葉が多くなり、とても翻訳できないほど。
さりげなく他のホーメイジの批判も織り交ぜながら、
この出会いに大きな感謝していた。
夕方たった一泊なのに、胸いっぱいの思い出を詰めてこの地を後にした。
ほぼ全員何かの菌にやられて
おなかがかなり緩かったのに、乗り切ることができたのはなにより。
夜11時頃無事クズルに戻った。