日常: 2020年5月アーカイブ
父が骨になって出てきた。
高性能な炉で温厚な笑顔がついにこの世から消えてしまった。
3日前の9時17分に死体になって、
病院から27キロの居間に帰ってきた。
翌日愛用の髭剃りで髭をそったはずなのに、
炉の前に来た父の髭は明らかに伸びていた。
コロナウイルスによる緊急事態の中で、
多くのイベントが中止になっていたおかげで、
このひと月あまり毎日父といることができたし、
倒れた時も救急車に同乗していた。
それから6日間意識が戻ることはなかった。
妹や孫たちも病院に訪れ幾度も声をかけた。
葬儀は映画「お葬式」で有名な葬儀屋さんの二世で、
てきぱきと不安なき名人芸の手配だった。
(彼は母の雑貨店の小学生のお客さんでもあった)
お寺に打ち合わせにいくと、方丈さんのお母さまは父と同級生、
そして彼は小田原高校の後輩であった。
山で働き、山が好きだった父のために、
嶺山實堂なる戒名を授けてくれた。
欲張れば、豬や筍や鰻や西瓜まで網羅したいが、
父は倒れる一週間前に国から10万円入るからこの一万円で
鰻にしよう あと西瓜と柏餅と・・
九十歳にして素晴らしい食欲を見せていた。
世界大恐慌の年に生まれた五人兄弟の末っ子で、
少年時代はずっと戦争だった。
十三歳の時から狩猟に参加していたそうだ。
ダマスカスの英国製の銃を自慢そうに持ち、
仕留めた大物の豬を十国峠の看板付近で仲間との写真がある。
終戦後、車で新橋の闇市に行っていたようなのだが、
246号線をとことこと石炭自動車で越えたのだろうか。
二十五歳で結婚し二十六歳で長男が生まれた。
湯河原温泉は活況でタクシー会社で五年間運転手をしていた。
三十三歳くらいから林業に転職しそれから二十二年間働いた。
六十九歳で肺癌になったが手術で全快する不死身ぶり。
生涯現役だった豬は罠猟を研究して多賀の農協で技術を教えていた。
そのせいで生まれてからずっと家庭で豬を食べてきたので
息子であるぼくのからだの半分くらいは豬でできているんだろうと思う。
豬は人を繋げて、ある時は灰谷健次郎さんがうちで豬鍋を食べていたり、
解剖学者の布施英利さんが豬猟の弟子入りしたりいろいろ驚かされた。
若い時は乱暴であったので理不尽に殴られたこともあったし、
文字通りの猪突猛進なので多くの人に迷惑もかけたであろう。
いま骨を壺まで運んでいる。
その骨は燃えかすになって、父のカタチは永遠に失われていた。
巻上公一
2020年5月22日