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日本トゥバホーメイ協会企画、ロシア、アルタイ、キルギス共和国公演
新型コロナウイルス(コビット19)による世界感染拡大によるキャンセルの経緯報告。
2020年4月1日
巻上公一


「平家物語」とキルギスの「マナス」、アルタイの「カイ」を一堂に会してみたい。
現代を生きる語り部たちの頂上会議(サミット)ができないものか。
もちろん物語と英雄叙事詩の違いもあり、もともと性格が違うのだが、
ぼくはこの耳で音として芸能としての発声に注目しながら、
出会いによる気づきを求めたいと思ったのだ。
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2020年1月18日
 渋谷の公園通りクラシックスで「いにしえと未来が夕闇に溶ける瞬間(とき)」と題して、試演会を催した。久保田 晶子さんの「平家物語」の琵琶語りに、パーカッションやテルミンの音を加えてのコラボレーションだ。出演は、アルジャンスー (巻上公一 声、尺八、テルミン  佐藤正治 ドラムス、パーカッション) 久保田 晶子 語り、琵琶、ウメトバエワ・カリマン コムズ、口琴である。
 その響きは、とても魅力的で、3月の交流に向けて手応えを感じていた。
 さて、今回の交流の大きな目的は、こうだ。
 アジア北方の遊牧民が信じているとされている創造神「テングリ」の思想を軸として、伝統と再生、音楽と口承文学、そして日本と北方アジアとの文化的な交流を図り、広くユーラシアの音楽を見直し、新たな発見と発展につなげたい。現在アセアン諸国との交流が深まる反面、ロシア連邦からCIS諸国の交流に弱まりを感じる。文化圏として非常に重要であるので、より強固な関係が必要である。数年にわたるプロジェクトを意識し、北方アジアと日本の大きな交流の輪を築きたい。


 ところがである。2月に入って、武漢からはじまった新型コロナウイルス感染症 (COVID-19 2月11日WHOが新型コロナウイルスの正式名称を「COVID-19」と命名)が、次第にアジア全体に広がりつつあり、
後半に入っても収束するどころか、次々に世界に広がっていった。

3月1日時点
* 国内感染者254名(患者232名、無症状病原体保有者22名)
* 世界の感染者数87,137人

そして、キルギス共和国は、中国に国土が隣接していることもあるのだろう。
3月4日付のキルギス共和国の公式サイトにおいて
「特定の国(中国,イラン, 日本,韓国,イタリア)の国民に対するキルギスへの一時的な入国制限」を発表した。
 それによって、われわれのチームは、まずキルギスで既に決まっていた
キルギス中央テレビとの共同制作コンサートを諦めねばならなかった。
Bakyt Chytyrbaev(伝統楽器kyl-kyjak演奏家) とNamazbek Uraliev(Lute Komuz演奏家)との共演。
マナスチ(語り部)のSamat Kochorbaevは、
以前カルムキアの語り部フェスティバル以来の邂逅に期待をしていた。

 そして、ヨーロッパにCOVID-19が広がりつつ中、ロシアは意外にも冷静な対応で、
中国人は早々に入国制限していたが、日本人にはまったく制限が加わる様子がなかった。
 アルジャンスーのふたり、巻上公一と佐藤正治は、共通で参加しているヒカシューのエストニア公演のために、早めに出発することになった。

3月11日(水)
成田空港からアエロフロート SU261便 13:20発でモスクワへ。
モスクワシェレメチボ空港に17:35着。トランジットでSU2262便でエストニアタリンへ 20:30 に到着。

3月17日から国際交流基金の助成を受けて
モスクワ、アルタイ、キルギスで英雄叙事詩をテーマに交流プログラムをはじめる予定でのモスクワ経由である。
ヒカシューの申請したエストニアのアジアにフォーカスしたフェスティバル「1000 Cranes festival 」(千羽鶴祭)は、国際交流基金から助成を受けられなかったが、アジアにフォーカスしたエストニア初の魅力的なものだったので、参加を決めた。すでにエストニア入りしていた他のメンバーと夕刻過ぎに合流した。

3月12日(木) 朝、世界遺産の旧市街を散策した。グレートギルド(エストニア歴史博物館)の向かい側のエストニアで一番古いカフェ(1806年創業の)マイアスモック(Maiasmokk)で朝食。新型コロナウイルス騒ぎが次第にヨーロッパに舞台をうつしてきていたが、この時点では、ロシアもエストニアも日本人をおおらかに受け入れていた。

3月13日 国際交流基金モスクワ日本文化センターの高口さんからメールをいただく、この時点では、モスクワからシベリアへの日本人の入国規制は行われていなかった。

タリンのバルト駅で、隣接する中央市場(Balti Jaama Turg)のMuhu Pagarid(黒パン屋)で黒パンを買い、Elron(エストニア鉄道)に乗り込んだ。約2時間でタルトゥ駅に到着。タクシーで会場近くのホテルにチェックインする。ホテルから徒歩1分ほどのところにギャラリーやレストランの集まったカルチャーセンターAparaaditehas がある。その一角にある会場のArmastuse saal(訳すと「愛のホール」か)に到着して、機材を広げ、サウンドチェックをしようとしたところスタッフのTiuuさんから待ったがかかる。そこにこの日共演予定のギタリストJaanus Nõgisto(ヤヌス・ヌギスト)がタリンから車に乗って3時間かけて到着した。
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 スタッフのTiuuさんは、電話でいろいろ確認をしている。「なんだかパニックなのよ」政府から緊急事態宣言が出て全ての公演が禁止になるようだという。しかしそれは3月13日からということだったので、お客さんもまばらにやってきて、ギリギリ間に合ってライブを行うことになった。ヤヌス氏は、伝説のギタリストでもあるが、テレビのプロデューサーとして有名人で、エストニア人なら誰でも知っているとのこと。


 3月13日(金) Elron(エストニア鉄道)でタリンに戻る。AIrbnbを主催者が用意してくれたが、3部屋に7人ということなので、ぼくは三田さんと隣のパークインラジソンホテルを自分で予約して移る。
 そうこうしているうちにエストニア緊急事態宣言が発出。大学まで全ての学校が休校、5月1日までのコンサートも禁止に。このフェスティバルのために来ていたダンスのデュオ86B210や山田うんもまったく公演ができないことになった。発案者で振付師のTeet Kask氏は、ダンス作品「金閣寺」を用意していたが、その上演は叶わなかった。


3月14日 (土) ヒカシュー タリン公演(KinoMaja)は、当然中止になる。午前中から旧市街で撮影をすることにした。とても美しい中世の雰囲気を残す町並みで、トームペア城に向かう坂道や広場はどこをとっても絵になる。
 この非常事態もあってなのか、バルト海を臨む倉庫街で営業するモダンな日本食レストランKAMPAIのオーナーが、ランチに招いてくれた。ダンスのデュオ86B210やTeetとヒカシューのメンバーで、コロナウイルスを吹き飛ばす元気なフォトセッションをInstagramにあげた。

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3月15 日 (日) ポーランド航空で3人のヒカシューメンバーが来ていたが、この日ポーランドが全ての国際線のフライトを禁止した。空港に対応を求めに行くも、航空会社スタッフはすでに本国に帰ってしまっていたため、日本まで飛べる便を探し、急遽トルコ航空の便を予約。
 午前10時からMuusa helistuudioという小さなスタジオをレンタルとて録音することにした。人気作曲家DJのSander Mölderの紹介でChris Männik さんの経営。エンジニアはMikkを紹介してくれた。残念ながらスタジオのレベルは高くなく、Mikkさんの腕には不満があったが、それなりに演奏はできた。(ピアノがないのは致命的だった。ピアニストのいるグループにピアノなしは困る。)
 3月16日(月) この日は雨だった。アルタイ共和国の共演者語り部のBolot Bairyshevから連絡があり、すべての文化行事が17日から中止になったとのことだ。
 Коичи Сан.!! Алтай с 17 марта по всей республике преостановленл культурные программы. Один час назад правительство большое совещания было , университеты, школы все закрыли !! Мне очень жаль..

 ということは、ゴルノアルタイスク行きの飛行機をキャンセル必要がある。もちろん予定していたノボシビルスクのコンサートや文化行事すべてに参加することが不可能になった。
 午後になってトルコ航空組が出国した。タリンからのトルコ航空便はこの便が最後になった。
 モスクワ組が残ったが、この日の夜に、
ロシア連邦共和国が18日から外国人が入れなくなることを知る。(スプートニクのニュースで)

 3月17日のモスクワのライブはアルタイ共和国、キルギス共和国における演奏の試演の意味を含み、作曲家、バイオリニストのアレクセイ・アイギ、実験音楽家、サックスのセルゲイ・レートフ氏とのコラボレーションも計画していた。
大規模コンサートではないので、人数をコントロールしての開催のはずだったが、あまりにも急に変化しそうだったので、主催者とキャンセルの方向で相談をした。旅行社に事情をメールし、便のキャンセルと新しいチケットの予約を依頼する。
 3月17日 (火) 朝8:20にホテルのロビーに集合。朝にはDOMでライブはせず、トランジットして帰ることに決めていた。怒濤のような一日だった。多少の心残りはある。この日はまだ日本人はロシアに入れたからだ。でも何かあまりよくない胸騒ぎがあり、まずは危険を回避しようという心が働いたのだと思う。
 そして、タリンからモスクワ行きに乗る。SU2107便10:50発。タリンの飛行場は閑散としていた。免税店やエストニアのおみやげ屋さんも軒並み閉まっていて、エストニアのチャガ粉やハーブを買うことができなかった。

 3月18日(水) モスクワから帰国。成田空港に到着。SU 260 19:45 SVO 11:20成田着

参考
3/13~緊急事態宣言
https://www.ee.emb-japan.go.jp/files/100018893.pdf


3/17~入国制限

https://www.ee.emb-japan.go.jp/files/100021436.pdf

朝食をとりにレストランテントに行く。
昨日の話だと朝食付きだというのに、なぜかひとり300ルーブル(約800円)とられた。
こちらの物価からかんがえるとべらぼうに高い。かなり豪華に市内のレストランで注文してもこの半分くらいだ。
オトクンが迎えに来て、市内に向う。
チベット仏教寺院の見学しておみやげを買って。
坂出君はなかなかいい毛皮の帽子を手に入れた。
2軒目のお土産物屋さんだったかな、
とっても可愛い子が店番していて、
「わっ、かわいいね」と三田超人と声にあげていたら、
カレンダーを買う時にロシア語で
Я знаю, каваии слова(わたしかわいいって言葉知ってます)」と微笑まれた。
なんと、かわいいという言葉はトゥバにまで来ていた。
そして 会場の下見。
1000人近く入る大きな劇場で、ピアノの状態はよくないけど、
ドラムはソナーだ。
そして夕食は、少し郊外に行き、バラン(羊)をいただく。
これは本当にうまいなぁ。
半分トゥバ人になっているのかもしれない・・
トゥバテレビの社長もやってきた。










早朝7時40分アバカンに到着。モスクワから4時間半のフライト。
オトクンと沢田さんの出迎えで、ハイエースの4WDの屋根に荷物を積む。
そんなことをしているとトゥバ共和国の副大統領に会う。
50メートル先には、ショルバンカラオール大統領もいる。
駆け寄って握手。
トゥバテレビも取材している。
トゥバまでの道中は、生憎霞がかった空で、サヤンの峰が見えず
残念だった。
昼頃クズル市内に着いたのだが、いきなりオヴュール地方ハンダガイテの人々の地方会に。
ヒカシューは、到着した途端に羊肉の洗礼を受けた。

今宵の宿泊地は、Aldyn-Bulak。エニセイ川を西に45キロほど行った新しい観光ユルタ村。
エニセイ川沿いでもとりわけ美しい場所に設けられたユルタ(トゥバ式のテント)村だ。



中央には、レストランがあるけれど、高級ぶっていて値段が高いのには驚いた。
宿泊がひとり千円くらいなのに、東京並の値段である。
トゥバも変わったなぁ、と思わざるをえない。
バーニャ(ロシア式サウナ)も、
いままでに入ったバーニャの中で一番きれいでちゃんとしていた。
温水が出るのにもびっくり。
と、突然地震があった。
地震の国から来たのにトゥバまで地震なんて・・地球はどうかしてるぜ。
そして、どしゃぶりの雨と雷。
自分たちのユルタに帰るまでにすっかり体が冷えてしまった。
とても、レストランまで行けそうにないので、もうそのまま寝る作戦を決め込む。
2時間後、雨が止んで、「レストランはやってるよ」とおばさんがいいに来てくれたけど、
「ごめんなさい、もう寝ます」と毛布にくるまった。



アバカン行きの飛行機は夜11時発。
昼、時間が出来たので、画家のビクトル夫妻の案内で
モスクワ川をクルーズした。
ビクトルは可愛い双子の子供たちのために
ぼくらはその付添のようでもあった。




クルーズの後、ぼくはひとりリューダの家に行き、トルコ式珈琲をご馳走になり、故ニコライ・ドミートリエフのお墓参り。
もうノヴォデヴィチは閉園時間だったが、
「日本から音楽家が来てるのよ」とリューダが守衛に言い開けてもらう。
ゴーゴリ、チェーホフ、スタニスラフスキーの墓があり、その次にニックが眠っていた。
ニックが亡くなって7年。やっとモスクワに来れた。


赤の広場まで散歩しようか
ピャートニツカヤ通りから橋を渡ったあたりで雨
グム百貨店で、雨宿りしつつチャイに蜂蜜を入れて


夕方5時からサウンドチェック
リュードミラさんと再開
ニックが亡くなってからもう7年経つのか
11年前にDOMのステージで宝示戸くんと演奏したのは昨日のようだ
ニックと同じようにリュードミラは
観衆に挨拶し、丁寧に音楽を紹介した
ニックの志がいまでも引き継がれている
ぼくはつたないロシア語で挨拶し演奏をはじめた
後半
アレクセイ・アイギが参加してくれて
とびきりのニコセロン
鳴り止まない拍手
ヒカシューのモスクワデビューの夜だった


今日は、オタワからモントリオールへまず2時間かけて移動。
モントリオール空港でヴィクトリアヴィルフェスティバルのクルマを見つけるのが大変だった。なかなか見つからず、ロジャーさんというテンガロンハットを被った髭で半袖の運転手さんと会うのに30分くらいかかった。
そしてさらに約2時間かけてヴィクトリアヴィルへ。
ここはケベック州なのでフランス語圏になる。
まず町の外れのホテルにチェックイン。少し休んで、町の中心へ。
もう午後4時からサウンドチェックなのだ。
ヴィクトリアヴィルの音楽フェスティバルFestival International de Musique Actuelle de Victoriaville(FIMAV)  は、今年で27回目。
アンソニー・ブラクストンはじめジーナ・パーキンス、ヤープ・ブロンクなどが出演する、北米で最も大きな先端的音楽のフェスティバルである。即興、前衛ロック、ノイズがプログラムの中心である。
ニューヨークからも車でファンがたくさん来るなど、このフェスティバルはかなり重要なフェスティバルであると思われる。
サウンドチェックが終わって、近くのレストランで使える食券をいただいていたので、腹ごしらえ。ここの食事はフランス語圏とは思えないほどのイギリス風。
そして本番は8時から。
会場は映画館。やけに真っ暗になるのがまさに。
最初に、ぼくは短いヴォイスのソロをした。
それから正治とボロットのトリオになるのだけど、
このフェスティバルでのトリオ決して良かったとはいえなかった。

テルミンもぼくの声も小さくて、切り込みがなんだかうまくいかない。
またトップバッターというのも、
フェスティバルを理解する時間がなかったのでなかったかと感じた。
このフェスティバルはどちらかというとヒカシューで来たほうがよかったかもしれない。
でも、主催者のミッシェルが、TOKYO TAIGAを選んだのだから
これでいいのだろう。
やや不完全燃焼だったけれど。
それでもニューヨークから来たレコード店オーナーのブルースさんは
「よかったよ」と言ってくれた。
ちょっと安心。








昨晩、宿泊したホテルは、オタワのLord of Elgin Hotel。落ち着いたいいホテルだ。
遅めの朝食をホテルと直接繋がっているスターバックスでとった。
オタワでの主催者はマックス。ミドル氏という詩人。
2年前から、オタワに来て欲しいと頼まれていた。
おそらく朗読する詩人たちのネットワークないしは情報のやりとりがあるのだろう。
以前、カナダに来た時のメンバー、ヤープ・ブロンク、フィル・ミントンたちが
このシリーズに参加している。彼らはサウンドポエットとの繋がりも大きい。
ぼくもおそらくサウンドポエットの領域からここに呼ばれたのだろう。
だからソロでもよかったのだが、せっかくなら新しいプロジェクトがいいだろうと思い、
アルタイの英雄叙事詩を謳うボロット・バイルシェフとパーカッションの佐藤正治を加えたАЯのTOKYO TAIGAで来ることを提案した。
ミドル氏のポスターをみると、TOKYO TAIGAともうひとつ名前が書いてある。
この名前の意味は後で知ったが、女性フォークシンガーのオープニングアクトがあった。
TOKYO TAIGA + Tara Holloway

午後1時、ミドル氏の案内でラジオ局に行く。生放送で宣伝というわけだ。


セッティング中



お客さんは、詩人筋ということもあってか、割と年齢が高めだったような気がする。
最初は、ぼくのソロヴォイスを10分ほど、正治が加わって、だんだんトリオになるスタイルだ。
よかったのか、どうなのか、演奏していて少しはわかるが本当のところはわからない。
日本大使館の文化担当官の方がほめてくださったので、よしとする。






ここにパール・ビリーさんのコンサート評があります。

It was wholly absorbing and with little runs of joy thru the music. A mix of transcendent and comedy and sustained mood. They played songs back to back without any banter to break up the sounds.


Sound and furiously good times: Pearl Pirie reviews the AB Series


この日からヒカシューのメンバーと別れ、
ぼくとマサは、カナダに向かった。夕方の便だったので、
少しニューヨークを散歩。
散歩が楽しい街だからね。

夕方のデルタ航空で、まずモントリオールへ。
空港で、友人の振付師のニコラス・ディクソンと待ち合わせしていて、
会えたのは本当にうれしかった。
1985年に小林紀子バレエシアターで作品を作り、
1987年にチュチュランド・アカデミーというグループを作り
「なにもかも踊れ」「そばでよければ」などの作品を作った仲間だ。
カナダに居を移してから、会っていなかった。
「また、なにかつくろうよ」と彼は言う。
「なにかね」
なんだろう。つくれるのは。

オタワ行きのバスの時間になったので、乗り込む。
チケットの買うのを忘れて乗ったが、途中コンビニに寄ってくれて
チケットを買ってこいとバスの運転手に言われ、購入。
どんどん田舎になって、真っ暗闇になって、とても遠かった。
オタワに着いたのは、夜。
主催のマックス・ミドル氏がバスの終点で待っていてくれた。
そこからタクシーでホテル ロードエルギン(Lord Elgin)にチェックイン。
で、もうすぐボロットがバスで到着するはずなので、再びバスターミナルへ。
するとボロットのバスがなかなか着かない。
どうもバスが気を利かせてホテルのそばまで行ってくれたようだ。
それがわからず約1時間ボロットと会えなかった。



朝早く起きて、ヒカシューメンバーの部屋に行く。
ぼくの部屋はワンベッドルームのツインベッド、そして大きなリビングとキッチン。
メンバーは、2ベッドルームのトリプルとツインに
さらに大きなリビングと大きなベランダとバルコニー。
昔ほんの少し在籍したプロダクションの持ち物で、場所の便もいい。
ベルを押すと三田が出た。
三田超人の「うらごえ」は完成していた。
「ひとり崩壊」という詩に誰も曲を付けないようなので、
リビングのギターで自分で作曲。

メンバーが同じコンドミニアムに泊まれるのは大きなメリットがある。
「生まれたての花」も清水さんが高速で譜面にしてくれた。
朝のほんの2時間ぐらいで、驚きの作業効率だ。

午前11時にスタジオにタクシーで到着。10ドルだった。
今日は歌ものを中心に録音する。
「生まれたての花」「夕方のイエス」「うらごえ」

夕方録音を終えて、
夕食は家族やKenjiさんとcacio e vinoでピザ。




午前10時 ノーホーのスタジオEASTSIDE SOUNDに到着すると、
エンジニアのMarcが笑顔で迎えてくれた。
しかし、この入口、知らなければここにスタジオがあるなんてとても思えない。
さらに驚いたのは、スタジオのセッティングはほぼ完璧に準備されていた。
もちろんメールでのやり取りはあったけど、すぐにでも録音できる状態になっていたのには
とても驚いたし、感動した。またそれぞれのモニターには、日本語で楽器名と担当者が日本語でプリントしてある。
ドラムもいろんなものがあるらしいが、マサは、ロジャーズを選択していた。
ぼくのヴォーカルマイクは、四角い穴が空いたようなユニークな形状のものでしげしげとみつめてしまった。
ブラックホールという名のラトビアのマイクとのこと。
コルネット用のマイクは、RCAのリボンマイクだ。
午前中だけで、4つの面白いセッション録音できた。
はやい。
はやすぎるぞ。